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2023年11月30日

はてさて

X(旧Twitter)さ、おすすめで知らない人のポストが表示されるじゃないですか。なんか、共同親権のとかを見ていたからか、そういう系のが表示されることがあります。


ある時、DVを受けて別居した人のが流れてきて、大丈夫だろうかと気になっていました。一応は進展をしたところでまた投稿が途絶えていて気にはなっています。円満とは行かないかもしれないですが、良い方向に行くといいなと。違和感がありながら現状維持をし続ける人には、行動をしたことにより学べる経験値はないですからね。「現状維持は退歩なり」という言葉をテレビで丁度(これを書いているとき)聞いた。
辛いと思いながら相手に合わせるよりも、自分が望む生活をした方がね。自分が合わせたくて合わせているのならそれが望みだからいいですけれど、そうでないのなら一度考え直してみると見えるものもあるかもしれません。

その流れでなのか、"男の少なくとも一部に関しては"というやつが流れてきて、確かにそういう側面はあるかと納得しました。私のアカウント(アイコンが魚のやつ)のいいねを遡るとあるはずなので気になる方はそちらを。同性に対するマウントでもあるのですよね、恐らくは。
それで、以前に見たやつを思い出したのです。パートナーが有名な人とか、まあ言ってしまえばすごい人なことによって、同性の中で他の人よりも優位になるという考えがあるとかそういうのだったと思います。すごい相手を射止めた自分すごいみたいな感じなのですかね。相手をマウント取りに利用しているので、軽視が入っているとも見えなくはないです。これは男性に限らず女性でもこういう人はいるので性別は関係ありません。


2023年6月27日

気になったことからその他のこと

宗教関係の話をしているので、そういうものが嫌いな方はお避けください。また、だいぶアレな内容なので、読む人を選びます。無理だと思った時点で離れることをお勧めします。書いている自分でもよくわからなくなったりしていますが、きっと最後まで読む人はいないと思うのでそのままいきます。もう少し前にあげられたのですが時間をかけすぎました。


ある報道を見て、どこかの宗教の方なのだろうかと調べてみたが、そういう情報はその時は見つけられず、そうするとやはり幼少の頃から触れていたものの影響だろうか、そういう内容のものもあるだろうし。と思ったが、書かれているところがあって、どうやら仏教、天台宗の敬虔な信徒だとのこと。それならばこれについては納得で、仏教の死生観は輪廻転生(浄土真宗は違うという話もある)。無宗教が多いはずの日本の場合で考えてみると、転生する描写があるアニメやマンガの影響(文学作品なら「豊饒の海」とか)で信じている人も多そう(「生まれ変わりはあるか」という問いに「ある」と回答した日本人は4割以上いるらしい)だが、純粋に宗教的に信じている人はどのぐらいいるのだろうか。そしてまた、仏教では自サツについては明確に記されておらず、その為、自サツは罪に問われないという解釈は出来るし、自分をコロしてほしいと他に願うのも同様である。しかしながら、本人が望んでいたとしても、それを助けたとなると、宗教としては問題がなくても法律的には問題があるので、そこのところがどうなるか(動きがありそう)。ただ、明確に記されていないというだけなので、悪いことではないという解釈になるのは違う気もするのだがどうだろう。一般的には、明言は避けたとしても人道的な観点から説くことが多そうな気がするが。それは結果なので、その結果を導かずに済むには、その過程である原因の部分をどう解決していくか、という話になるのではないか。
そんなことを考えていたら、ひとつ気づいたことがあった。輪廻転生をするのだったら、墓参りや法事は何のためにしているのだろうと。転生をしてしまったらそこにはもういないことになるが、だから墓参りは生きている人間の為だという話にもなるのか。同じ疑問を抱く人はいるようで、説明をしてくれているものが幾つかあったので読んでみたが、どれが正しいものに近い説なのかがわからない。蛇足だが、転生をするまでの平均的な期間は4年5か月というデータがあるようだ。子供に、前世の記憶を訊いたもので、その記憶はある程度の年齢になると忘れるらしい。

さて、私の考えとしては、輪廻転生はどうでもいい、どちらかというと否定の考えである。また、宗教における死生観は大まかに、転生と他界に分かれるが、他界観についても同じで、どちらかというと否定だ。考え自体はそれぞれであっていいと思う。信じるのは自由であるし、ないと言い切ることも出来ない。我々は知らないわけだから。それを知るのは、知る必要のなくなったときになるので、自分の信じるものが正解でいい。

突然スピリチュアルの話になるが、スピリチュアルでは前世が来世がどうのこうのという話がよく出てくる。前世のカルマ(因縁)を今世で解消しないとなんのとか、謎の理論が展開される。その可能性も否定はしないし、例えば現在辛い情況だとして、その情況を前世の因縁とすることで耐えられるのであれば、決して無意味な話ではないのでいいと思う。簡潔に言えば、”前世の色々を今世(現世)でどうにかすれば来世が明るい“ということだが、それは今世が辛くなる可能性が高すぎな気がしないか。そもそも、前世のときはそこが今世であり、そのときの来世は今世なわけだから、その理論を信じると、ずっと前世の因縁を解消し続けていることにはならないのだろうか。我ながら性格が悪い。まとめると、兎角生きるのは大変という結論でいいだろうか。
そしてまた、占いにも、相性で前世(過去世)の縁が、というのがあったりする。これはそうするとかなりいることになるが大丈夫だろうかと思う。ただ、今関わりがあって、その中での縁と考えればなくはないだろうか。しかしながら、前世の縁は大事なものなのか。前世の縁がそのときに出来た縁なこともあると考えると、ならば今世で縁が出来た人もいるだろうし、前世が今世が来世がみたいなものはあまり関係がないのではないかと思うのだがどうだろう。ちなみにだが、占いを信じると、現時点で私には前世の縁がある人物が2人いることになっている。ただ、2人ともアーティストなので、一方的な親近感でしかなく、それをそう言ってしまうのは違うと思うので、それには該当しないとした方が賢明そうだ。前世の因縁や来世がどうとか知ったこっちゃあない。前世に縁があろうが、今世に関わりがなければそういうものだろうし、関わりがあったとして、それを知ることで何か変わるのだろか。占いをこじつけで言えば、関わりのある人物もしくは気になった人物を見てみたらそれがあった、というだけである。
私が輪廻転生を否定しているのは、前世の記憶と言われるものが本当にその時分のものか不確実なことと、仮令それがあったところで、”今“に関係がないと考えているからだ。記憶が残っていると主張する人物もいるが、それは怪しかったりするし、退行催眠(前世療法)はわざわざ思い出す行為をしているわけだが、それも実は怪しかったりする。怪しいという理由は更にごちゃごちゃするから書かないが、だとすると、輪廻転生というものはなさそうだということになる。そのようなわけで、仮令あったとしても覚えていないということは、“今”に関係がないということなのではないか。ならば、それは必要のないことであり、その考え自体があまり意味を持たない。また、死生観のもうひとつの他界観についても否定しているのは、言ってしまえば、それがあったとしても生きている人間が行ける世界ではないので、生きてる人間が考えた世界であり、そこを見たわけではない。他界観とは、死んでから違う世界にいくということだが、わかりやすく言うと天国か地獄かというものである。これを踏まえると、前述で仏教は転生と書いたが、他界でもある。六道輪廻する、もしくは解脱すれば浄土往生出来る。キリスト教も教義上は他界観で、教派によっては転生もあるが一部である。

色々書いてきたが、これらは全て無意味だ。こんなことを考える必要は全くない。むしろ、考えていない方が楽しく生きていけるだろう。過去が現在が未来がなどという柵(しがらみ)はない方がいい。どうしたってやってくるし、どうあっても過ぎていくものであるが、全てが同時に存在し、未来の事象は現在そして過去と変化をする。しかしながら、それらは点でしかない。

而、今を頑張りすぎる必要はない。頑張ることはいいことだし、来世があったとして、それを理由に諦めているのなら今頑張れとは思う。ただ、頑張りすぎて楽しくないのなら、きっとそれは本末転倒だ。楽しむことが出来る人であれば、楽しめる程度には、余裕を持っているべきである。それは何事にも言えるが、今の世の中は柵が多く、ただ楽しむことが難しくなっている。だからこそ、視点の変化が大事になってくる。
そして、時代的に、昔からのこうあるべきや所謂一般的と言われているものに縛られていると生きにくくなる。柔軟な思考と変化への対応、これまでの慣習はベースとしてある上で、それを現代に合わせた形でアップデートさせていくことが必要になる。また、パートナーがいても、敢えて籍を入れない選択をしている人達が増えていることや、LGBTQの話も、時代だなと感じる。LGBT法に関しては、そもそもがもっと当事者へのヒアリングをしなければならないことと議論が必要だ。差別をなくす目的のはずが、これのせいで差別を助長させる恐れがあるということを理解していないところが怖いところである。このことの意味がわかる人は大丈夫であるが、わからない人は考えてみてほしい。


2023年5月6日

よくわからない

占いの話になるので、興味のある方だけどうぞ。


先日冥王星逆行がトレンドにあって、普通に占い用語がTwitterのトレンドに出てくる昨今ですが、あれはなんでそんなことに? いつもびっくりするのだけれども。この間も水星逆行がありましたし。一般に浸透しているわけはないと思うから、なぜなのか謎。
一応説明しますが、こういう占いでの天体の逆行というのは実際に天体が逆行しているわけではなく、見かけ上のものです。大丈夫だと思いますけれど、念の為。地球を中心にして見ている為こういうことが起こります。ちなみに、太陽を中心にして見るやり方もありますが、一般的なのは地球中心のやり方になります。
冥王星はよく逆行しているので珍しいことではないのですけれど、今回トレンドになっていたのはサイン(星座)またぎなことだからですかね。3月にみずがめ座に入ったのですが、またやぎ座に戻るのでそれででしょうか。
今回の冥王星逆行についてご興味のある方は、こちらの動画で解説してくださっているので置いておきます。




さて、これから書く "〇〇座さんはこうである" というものは占いでの話で、"〇〇座" に該当する全ての人がそうであると断言しているものではありません。そもそも根拠がないのでね。(私自身が、うお座だけれど優しくないですし)

いつだったか、とある方が「お嫁さんが理解できない」というお話をされていたのです。
その方の誕生日は知っていたので、「理解できない」ということは、えっと、お嫁さんは  かに座  か  おとめ座  か?  と(わかる方にはこれでその方が何座かはわかりますね)そのときに思いました。その後に、お嫁さんとのエピソードも話されていて、そのお話から、これは  おとめ座  ではなさそうだと思ったので、かに座  かなと考えました。とはいっても、そんなにうまく占いに当てはまるわけはないだろうと思ったのですけれど、それがまさに  かに座  で、どういうこと?  と。占いはホントに不思議。
今回の場合、お二方とも太陽と月が同じ星座のようなので、その為わかりやすくなっているのかもしれないですね。太陽がそれでも月が違えばそんなにわかりやすく出ないと思うのですよ。ちなみにですが、知識不足なのでわかる範囲でですけれど、他を見てみると相性が悪いわけではなさそうです。どうやらぶつかるとかそれ以前の問題らしいので、ちょっとのきっかけがあれば変わるかもしれませんね。

それで、おとめ座   ではないと考えた理由は、聞いたお話から頼ってはいるみたいなので、だとすると、おとめ座さんならもっとうまくやるだろうと思ったのですよね。
自分にとって利するところがあって必要ならば、表向きだとしても割り切ってうまくやると思うのです。業務的に優しく出来る、というのを何かで見たか聞いたかしましたね。こういうスキルは大事だったりするので、決して悪印象として書いているわけではありません。再度書きますが、これは占いでは、の話です。
そのお嫁さんは  かに座  だったわけですが、かに座さんの場合、その人のテリトリー内に入れてもらえていれば、そういう(ここには書きませんが)反応にはならないと思うので、おそらくシャッターを下ろされているっぽいですね。もともと開けてくれていないか、何らかのタイミングで下ろされたか。
かに座さんは自分のテリトリーに入れた人とそうでない人で態度を変えることがあります。相手によって区別をするところがあるのでしょう。太陽かに座よりも月かに座のほうがその傾向は強いような印象。プライベートは月が表すので、この場合は当然でしょうか。


かに座さんがどうこうという話ではなく、ただの私の考えですけれども、区別と差別は違いますが、必要のない区別は差別に繋がると考えているので、私はあの考え方が好きではないです。
と、突然関係のない否定に繋げてみましょうか。

かなり前から書こうと思いながらいいタイミングがなかったので、ここならちょうどいいです。
何かというと、「〇〇好きな人に悪い人はいない」というやつ。こんなの迷信の類でそんなわけはないですし、そもそもそれを関連付けるのがよくわからんのよね。こういうことを言っている人はそれを好きな人になると思うので、自分や当該者の良い人アピール?    と屈折した捉え方もしてしまいます。以前にとある演劇系の方が呟いているのを見てそうかーってなりました。見かけると残念に思います。
それを好きな人とそうでない人で区別をしていてそんなことをする必要ある?    と思ってしまう。人の善悪なんてそんなところだけでは判断出来んよ。悪い人ってのは良い人の顔して近づいてくるものですし。幽霊とかよりも生きている人間のほうが怖いものね。
差別はね。わかりやすく差別をしている人よりも、理解がある素振りを見せながら、無自覚に差別をしている人がいちばん残酷と言える。最近話題になっているようなことは必要な区別にはなりますが、ただ、それによって本当に困っている当事者がいることを忘れてはいけない。議論がズレて、そこが蔑ろになっているように見える。



2023年1月31日

えっとう

なにかしてたりしていなかったりしながらYouTubeを見ていることが多いのですが、そんなんでふと感じたことから広げてみましょうか。

人って外向きの顔と家での顔は違う人の方が多いじゃないですか。もちろん変わらない人もいますけれどね。
先日久々に見た番組のその人にはもともと嫌な印象はなかったのですけれど、普通に良い人らしいなと感じながら見ていました。
時々おや? と感じる人もいて、あからさまというより見ているとなんだろう……となることがあって、もちろん表向きはそんな風にはしていないですが、おそらく素はあれなんだろうと思ったりします。その場合はあれなのがふとした瞬間に垣間見えることがあります。
そんな中で、言動でおや? と思っても、後にそういうキャラでやっていることを知って、ああこの人裏表がなくて隠しているわけではないのかとそれはそれで印象が変わった人もいます。
ついでに書くと、御自身のことを”性格悪い”と言っている人は大体そんなことはないです。大抵の場合が思ったことをハッキリ言ってしまうだけで、それは必ずしも性格が悪いこととイコールになるわけではないと思います。本当に性格が悪い人はそういうのは表には出さない。



2022年10月8日

また少しあれな話。

宗教を信じている人に宗教を信じるなは無理な話で、団体が解散をして仮にそこから脱せても他団体に行くか違う何かに変わるだけな気がすんのよね。例えばスピリチュアルとか。私が見ていたのは基本的に現実に即しているものだったので、ぶっ飛んでいるものは見ていなかったのですが。そういうものに当たってしまうと宗教とほぼ変わらないかもしれない。占いもあり得ますね。それで悪い人にカモにされたり。

私が宗教を否定しないのはそれもあって、以前にも書いたことがあるかもしれませんが、宗教で救われている人がいるのも事実で、信仰をすることによりそこに存在意義や居場所を得ていることがあるのです。なので否定はしない。ただ、自分の生活は守れとは思います。故に、ほどほどに、なのです。信仰をする以前よりも悪い状況になったら意味がないので、破綻するようなものがあるべきではない。

献金やらは被害者意識がないから続けてしまうわけで、だからといって本人の意思でやっているからそれならいいかと言ったらそうではないですよね。
そもそも過度なことをする宗教団体がなければ被害者は出ないので、国で規制しようぜっていうのが海外ではあったりするのですね(↓の2つ目の動画で少し。動画の開始をそこにしてます)。こういうことをしたらカルト認定しますよというのを明確に示すことにより、信仰の自由は守りつつ、被害者が出にくい形に持って行っている。日本でもそうするのが良さそうな気がするが、それでもきっと、カルトは無くならないですけれどね。抜け道を見つけて上手くやるだろう。

あのかていは小物らしい。でもそうか、大物は生かさず殺さずか。それで長く。こうふくはどの程度なのか。


こういう会見を開くのは勇気いるよなぁ。
あちら側のそれはなんとも……。

こちらは会見の解説になります。





2022年9月25日

言い方大事

再生数を増やすのは癪なので見ていないのですが、ちょろっと見かけたあれについて。
「初見に優しくない」という意見はわかります。Dヲタをねらったのは明らか。そうではありますが、だとしても「いらない」ということはない。もう少し言葉を選んだ方がいいのではないかと。芸風とはいえ、それだと全否定になるから、あまりよろしくないです。例えば自分の嫌いな食べ物があって、存在を否定してそれを「いらない」と言っている人と同じですね。自分の気に入らないものは全部悪。でもそれには好きな人もいるわけでして。それを好きな人が聞いたら不快に思いますよね。だから、あの場合は「良さがわからない」ぐらいにしておくのが良かったのでしょうな。まあ、再生数稼ぎであのタイトルにしているのだろうけれど。

誰だかわからないからいらないということなのだと思いますが(たしかに作品には出てこないオリジナルなので知らないのは当然。公式ではないとしてもD社が知らないとは思えないのでOKは出ているのではないか)、じゃあ実際のところ、他のパレードとかの初見時にキャラクターを全部わかって見ている人がどのぐらいいるかと言ったら、そんなでもないと思うのです。ある程度知っていても、あれはなんのキャラだろうってことはあるわけで、だとすると、一般の人はよくわからなくても見て楽しんでいるのではないかと推察できます。
私の考えとしては、BIG5()を言えるのなら知っている方だと思っているので、マニアでもない限り大抵のゲストはそのキャラクターがなんの作品に出ているのかなんて考えて見ていないだろうし、そういうのを知らなくても楽しめるように運営側も考えているのだろうから、今回のヴィランズのもそうだと思うのですよね。ご時世的にもあれ的にもまだ通常ではないからちょっと物足りなさは出てしまうので、それを補う意味でも生声で話して盛り上げられる形にしたのではないかな。話せるのはああいうアクターさんになってしまいますからね。

あのパレードに出ているヴィランズ、全員言えますかい? って話でして。皆さんも、名前と作品名言ってみてください。たぶん難しいと思いますよ。あのキツネとネコとか、グリーティングでよくお見かけしますけれどもね。作品がわかっていればいい方で、名前まで知っている人は少ないでしょう。
ついでに、昼は同じフロートで違うパレードがやっていますが、その最初のフロートに乗っているキャラクターがなんのキャラクターかわかりますかね。汽車の上に座っているのだってわからん人はわからんだろうし、その後ろのところにいるのはなんのキャラクターか。パレードでは結構いますよね。

手下に怒っている人はまああれなんだろうな。詳しくない人ならショーに興味は示さずアトラク乗って、見たとしてもこういうもんだと思うだろうし、マニアになれば自分が嫌いなものならスルーするので。怒るというより関わらないになる。


ちなみにですが、ヴィランズのパレード、曲がかっこいいじゃないですか。あれは今回のために作られたものではなく過去の曲なので、すぐ見つかります。ヴィラワで検索すると正式なイベント名が出るので、それで曲を探してください。



  ミキ ミニ ドナ でBIG3、これに グー プル が加わってBIG5。そのあとは チー デー デジ



2022年9月5日

あれかもしれない話

迷ってずっと置いていたのを、少し修正したものになります。無駄に長いですが、内容は特にないようなんて。


さて。
そういう境遇の人間ではないですが、まあでもわからなくはないですし、そう思っている同じような人は少なからずいるのではないでしょうか。だからといって同情や擁護はしませんし、したことについてもちろん肯定もしません。

あまり幸せがどうのとは言いたくないのだけれど(「幸せ」という言葉は便利だが……)、過去が悲惨であっても、現在がある程度一般的に言われるような幸せを感じられる状況に生きられていたら、ああいうことは起こしていないだろうから、根底はそこでしょうね。あとは性格的なものもありそうです(生年月日が出ているのでちょっと見たけれど妙に納得するところがありました)。ただ、そういう境遇の人は、幸せな状況になるのはなかなか難しく、そこが問題ではある。
だから、ある程度は幸せな生活を送れている人には、理解しづらい部分はあると思います。たとえわかっているつもりでも本当の意味での理解は出来ないでしょう。

自分の思い描いているものがあって、それを自分がどうにも出来ない形で壊されたらそりゃあ恨みもするだろう。そこ行くか?    と思いました。本来の敵ではないとわかっていたようだし、社会的な周知が狙いだったのなら未遂でも目的は果たせただろうに。それだと周知は弱かったかもしれないが、それでも問題にはなっていたのじゃない?    今回のは実際、世間が勝手にどうにかしてくれている。狙い通りでしょう。どちらにしても、そういう形ではなく正面から戦うべきではあったが。
思うのだけれど、もともとは団体トップを狙うつもりだったらしいが、仮にそれが成功したとしてもそれでどうにかなるものなのだろうか、などと考えてしまった。それで崩れるとは思えないし、どうなるのが望みだったのだろう。

早い段階で距離を置くなり縁を切ってしまって、自分の人生を生きる道もあっただろうに、それはしなかったということなのか。(そうすることが非常に難しく、また出来ないのがこの境遇の人達であることはわかっています)報道から見るに家族思いだったのだろう。それが余計そういう思考にさせてしまったか。うーんそうか、中間子か。真ん中の子は、親の愛情を他の兄弟姉妹よりも受けられないことが多いので、そういうことも影響しているかもしれないですね。"母親を憎んでいる"と言っているみたいですが、それはどうだろう。それなら母親に向かうはずだけれども、それをしていないのであれば。そうすると、本人ではなく大事にしているものどうにかすることで怨みを晴らすとかならあるか。どこかで信じ続けているのだろな。
また、そういう人のお家(信者の家庭)はわかるので、学校などで疎外されたりしたことがあって、人や社会に受け入れてもらえないのを感じていると、積極的に人と関わろうという気持ちは湧きにくいでしょうね。それが更に孤立をうむわけです。必要な区別は良いけれども、社会がもっと、する必要のない自分達と違うものを区別しようとする傾向がなくなるといいのだけれども。
とはいいつつ、同じような境遇のかたは世の中にはいらっしゃいますし、そのかた達との違いは何なのだろう。Twitterで拝見しているかたでもいらっしゃいますね。違う団体ですがやはり親がそのようで、日々大変そうだけれど頑張っていらっしゃる。

ああいう団体を見ていると思うのが、そもそもの疑問として、神様仏様はお金は要らないだろうとよく思うのだよね。人間が使うものであって神様は使わない。それがわかっていると、ああいう類のものにはひっかかりにくいはずです。
ただ、お賽銭なんかは決まった金額はないと言われますし、お金というものが人間にとっての価値あるものとしてわかりやすいということかなと思う。だから、献金なんかをするのであれば(するなとは言わない)ゲームの課金や投げ銭みたいなもので、自分の身の丈にあった範囲にしましょうということです。
あと、居場所としての建物とか、神饌や供物(宗教で言い方が違うかも)には結果としてお金はかかりますし、そういう意味ではある程度は必要でしょうけれども、信者の生活が困窮する程のお金は必要ないと思うのです。話題になっている団体は基がキリスト教とのことですが、その要素どこ行った?    神はむしろ困窮者をお救いになられるのでは?    と考えると、これは神の本意ではなさそうですね。信者を陥れてどうすんの。まあ、洗脳のひとつのやり方ではあるので、こうすることで抜けられなくするのだけれども。洗脳は意外と身近にあったりするので、皆さんもお気をつけください。言ってしまえば、恋愛や結婚なんかでも近いことをされている人はいるんじゃないか?(暴言)  されている側は気づいていないだけで。


時々書きますけれど、私は宗教は否定しません。ただ、ほどほどに、ということは今回も書いておきます。
ここから少しTwitterで見たものから考えたことに書きます。

「私は無宗教です」という人は本当に気をつけてください。勧誘されると弱いかもしれません。
それなりに色々知っていて知識があっての「無宗教」と、宗教とかよくわからなくて知らないことでの「無宗教」があるわけですが、後者が危ない。日本の場合、「無宗教」と宣言する人の大半は後者だと思うのですよね。

知識をつけろと言っているわけではないです。むしろ人によってはそれも危ない。知識を付けた方が良いという意見もあるのだけれど、どうなのだろうな。あるに越したことはないが、ある程度のベースがないと危ない気がするのだよね。知っておくことで自分で回避出来るようにするってことみたいだけれど、その前にやられると思う。だから、近づかない、観察するなら距離を取る、危なかったらすぐに逃げる。
よくわからないのに興味本位で、下手に宗教関係(特にカルト)のHPとか見に行かないように。感化されますぜ。冗談ではなく。

良いこと書いてあんのよ。素晴らしい信念とかが書かれていて、読むと、そうか!    ってなりそうになります。私は、そういうのを見てアラを見つけたりすることもあるので(いい趣味してるだろ  笑)感化されないけれど、それでも耐性がなかったら難しいとは思う。
私の場合、ラジオの宗教関係の番組をハシゴしていた時期もありますし、スピリチュアル関係も実は通っています。全くどこにも何にも引っ掛からなかったのですが、見方として面白い(興味深いという意味の)なと思って聞いたり見たりしていました。しかしながら、ほんの少しの何かで、どこかにハマっていた可能性はあるわけです。こんなことをしている今だっていつどうなるかわかりません。

あと、新宗教(新興宗教)を毛嫌いしているような人も危ないです。嫌っているのなら大丈夫じゃない?  と思うかも知れませんが、そんなことないです。意外と、新宗教を嫌っているから宗教嫌いかと思いきや、神様仏様を信じていたり、また、冷静に見られれば怪しいとわかるものを信じていたりすることがあるので、そういう人は気をつけてください。日本は「無宗教という名の宗教」がありますからね。
何かをされた過去があり意味があって嫌っているのならまだ大丈夫ですが、これが特に意味のない場合が危ないです。例えば、「親が嫌っているから」とか、そういう自分の理由ではない場合。人の意見で意味もなく嫌っているので、それを信じているということだから素直な人の可能性は高い。素直なので、勧誘とかされてしまうと信じてしまいやすいです。人の言うことを信じやすいとか、からかわれやすいような人は、そういうのが近づいてきたらとにかく逃げる。関わらない。ただそういう人ってひとがいいから、怪しい人がわからなかったりするのだよね。


これは書くとお叱り受けそうだけれど、そもそも、宗教は人が作ったものではないですか。もっと言えば、神様や仏様だってそういう概念であり、人が作ったわけですよ。概念としてそこに存在させることで人の向く方向を定めている。そうやって、仲間意識や団結を作り出しているわけです。
これは有名人などにも言えることで、一部でそういう方々を神格化しているような人達も見られますし、それは宗教とさほど変わらないということです。それが故に、“推しが全て”という人はカルトにははまりにくい、ということもまた言えるみたいです。(推しが特定の宗教の神仏や教祖に変わったら別だが) 

身近で、世間からカルトと言われているような宗教を信仰している人がいるかたもいらっしゃるかもしれません。もしくは、ご本人でしたらすみません。それも有り得るから一応。
お相手のお家が、というパターンもあるだろうしな。それはもう諦めた方がいいですね。どっちの意味でも取れるので、それに自分も乗っかってしまうか、はたまた関係を断つもしくはなるべく関わらないか。後者をおすすめするが、それは後々のことを考えるとそちらの方がいいって話ね。気にしないのなら前者でもいいと思いますが。

個人的な話ですけれども、うちの辺りはなかなかの地域でね。ちょっと面白いなと思っていたりしますが、それはあまり自分に関係がないからだろうなと思う。
えっとね、パッと思い浮かべられる宗教系の施設(怪しくない寺社は除く)が4つあって、いままででチラシがポストに投函されていたことがある名前を知っているところが2〜3、名前も知らなかったところが1、投函はもっとあったかもしれない。宗教系のが入っているとワクワクしちゃうよね。とりあえず私はちゃんと見るから。それでなるほどって思う。


信仰は自由なので、それ自体は問題ではないですが、いやでもそういう人を見分けるのは難しいのですよね。そのこと以外はいたって普通だったりするから。
以前行っていたとこの美容師さんがそうでしたね。その人だけいつも予約で一杯で不思議に思っていたらそういうことだった。なぜわかったかというと、聞こえてきたお客さんとの会話でした。ああ、そこの人だったかと。
髪を切ってもらっても別に何かあるわけではないし、その後もそこには行っていました。普通なんですよね。

ストーカーをしている人とかもそんな感じですものね。
職場にいたことがあって、風の噂でストーカーなんだってさと。でも、普段そういう感じは一切なく、むしろ明るい人だったので不思議でした。その場を見たわけでもないので、私は特に態度は変えず普通に接していました。それはそれでそこは切り離せばいいので。
そんなに深く関わる人でなければ、それで問題ないです。深く関わる人だと考えた方がいい場合もありますが。



2022年3月21日

それもひとつか

世の中ってのは大体少数を切り捨てていくスタイルなのでね。それは仕方ないのでいいですけれど、ただ、ああいうことはしっかりとした方がいいと思いますがね。
問い合わせてどうにかなるのかもわからんし、クレーマーみたいになるのも嫌なので、もういいかなと。
きっと、やめるいい機会なのだろう。


ちょうど、あのラジオ番組が今年4月で20周年ですかね。
もちろん、それ以前から存じ上げてはいましたし、なんなら、やっていた番組も聞いていました。他に趣味がなくてラジオをずっと聞いていたから、それでなだけなので、印象は正直あまりなかったです。若い姉さんが頑張っているな位だったかな。
あのラジオで、当時はハガキ送って名前読んで貰って、自分単純だから付いていこうと思ったのを覚えていますが、その頃はまだひっそりとしていました。舞台を観に行きだしてから本格的にという感じでしたので、それまで数年間はひっそりと。
その頃のようにひっそりとするのも、いっそのこと、その前の状態に戻ってしまうのも、極端かもしれないが、それもいいか。その当時に戻るだけです。難しいことは何もない。それもひとつの選択肢として、しばらく考えてみます。応援している人が少ないと悩むところだけれども、そんなことないものね。情報はTwitterで誰かがつぶやくと思うので、嫌でも目に入るでしょうよ。
今日は春分です。切り替えにはちょうどいい日。新たな気持ちでスタートを切るには好日です。

そうすると、ここに注いでいたものをどこに注ぐかなんだけれどもどうしようか。今推しと言える人がいないんだな。いやあの薄々お気付きでしょうが、小松さんももう追っていないからさ。
私のあのTwitterアカウント、基本、リストを見ているから、ちょっとホームに行ったときにつぶやいていたら見ることはあるけれど、それ以外は目に入らないわけです。前に少し書いたのはこのことでもありました。
年明けだったかな(曖昧)、ホームに行った時に小松さんがたまたまつぶやいていて目に入ったのですが、「インスタ」の文字があって、インスタやってんの?!    ってなりました。そんなレベルですよ。
実は、'20年の3月位だったか、ふと、そろそろもういいかと思ったのですね。だから、5月のもダメージを受けませんでした。それがね、いつからかな、なんか違うなと感じるようになっていて、でも、惰性だったのかもしれないけれど、追ってはいたのです。それもやめたのがその位の時。

たぶんですが、その理由も説明が付きそうな感じもあります。
Twitterで見た話で、「不倫をしていたが、相手が離婚をすると相手に対しての興味がなくなる人がいる。それは、相手に流れているパートナーのエネルギーも含めてその人が好きだったのではないか」というような内容。
でね、これがもしそうだとすると、逆もあるのではないかと思うわけです。
その人が元々持っている雰囲気なり本質で好きだった場合、他の人のそういうものがそこに入ってきたら"違う"となるのではないか。それが、好きな系統であればそんなこともないのかもしれないが、苦手な系統であれば違和感があっても不思議ではない。
実際にそうだったのかはわかりませんが、何か違うと感じていたのは事実なので、この説は有り得ます。ええ。うん、まあまあまあまあ。"私にとっては"、だから。ここ大事な。自分にとっては微妙でも、他の人にはそんなことはなかったりするのが相性というのにはあるわけでですね。

坂本さんに対してはどうだったっけかね。あれでザックリ言うと、ひとりで問題ない人だからな。あまり影響を受けていないのかもね。あれは関係なく思っていたことですが、自分がこうあるというのが前提で、その結果の先に他人があるという感じがしていて、表現も自分のためだろうし、でも、それで良くて、彼女の場合そうあった方がいい。変に他人優先にすると、バランスを崩しそう。これは人によると思います。他人優先の方が、結果自分がいい方向に向く人もいる。自分があることで他人が見える人と、他人がいることで自分が見える人がいるように思う。
そうだな、もうあれかもしれないしこれ書いておきます。なるべく表現は続けた方がいいです。可能ならば人前に出るようなこともされた方がいい。それをしなくなると、結構キツくなると思う。表現をすることでエネルギー消費しているところがあるので、それをやめるとそれがどこに行くかということでね。違う方向に向かうことになるかもしれない。それが他の何かであればいいけれど、そうでなかった場合。それは出来れば避けてほしい。そういう人がいたから気になって。ここに書いても意味ないかもしれないけれど、サイトから送ることも私にはもう出来ないですしね。




2022年2月19日

気を付けろ

会話や話し言葉で、対象(物事、人物)に対して、批判的もしくは差別的、侮辱的な言葉は、それを普段思っている、言っている、親(ちか)しい誰かがそう言っていて聞いている、などをしていないと基本的には出てこないです。
そういう文字列を見聞きした時は、この人は本心ではそう思っているのだなと受け取りますね。冗談で言っているつもりでも、受け手によっては真意が伝わらないことがあるので気を付けないといけない。まあ、ほぼほぼ冗談ではなく本心でしょうけれどね。その人の中で、その表現に違和感があれば使わないはず。文字列に疑問を持たないということは、そういうことになりますね。
ただ、今回の件の場合は、その言葉が割と普通に使われるようになっていた背景もある。軽く扱われるようになっていたので、重い言葉として使ったわけではないのだと推察されます。内輪の言葉なのでしょうね。公の場だということの認識が甘かったのだろう。それに、いくらでも他の言い方があっただろうにと思ってしまいます。例えば、「私の視界には入らない」でも意味は同じようなものだし、問題があるかもしれないけれどここまでにはならないでしょう。
そういえば、とある方もあれな言葉を使ったことがありましたけれど、“ああ、この人は普段そういう風に客のこと言って(思って)いるんだな” と思いました。あの時、大多数の客は喜んでいましたが、私はちょっと、“ん?” となりましたから。人に対して使う言葉とはいえ、蔑む言葉ですよ。それを疑問なく使うってどういうことなのでしょうね。
元々そういう人なのかもしれませんし、そうではないかもしれない。それはわからないけれど、後者の場合、こういうのは環境によるところが大きいこともあるので、近くにそういう人がいることで影響を受けてしまった可能性もあります。素直な人程影響を受けやすく、そして素直が故に口から出てしまうという。
良い風(かぜ)に乗せてくれる人もいれば、勢いを殺してしまう人もいる。関わる人によって、方向性というのは変わってしまうのかもしれませんね。それは見方によっては峻酷でもあるか。




2021年12月19日

無理はしないこと

ニュースなどに触れ、
気分が落ち込んでいる方も
いらっしゃるかと存じます。
そういう時は、ご無理はなさらず、
考えすぎないようになさってください。

話せる人がいる場合はどなたかと話す、
もしくは、
ラジオなりネットの動画でもいいので、
好きな人の話している声を聞く。
なるべく楽しそうなものを聞いて、
話している内容が、少しでも嫌だな
と感じたものは聞かないのも大事。
興味のあることをするなどして
気を紛らわすのもいいです。
独りになると
考えすぎることもあるので、
考える余地を自分自身に与えないのも
ひとつの対処法です。

ただし、この対処法は、
一時的な気分の落ち込み
に対するものです。
長期間続くようでしたら、 
心療内科など
医療機関の受診をおすすめします。



2021年12月10日

単純にはいかない

人と一緒にいても、孤独だと感じている人は世の中に多いのだろうか。人といることで、孤独を解消出来る人はもちろんいる。人といて、それでも孤独を感じている人は、その孤独感は人で埋められるものではないのかもしれない。そういう場合は、"自分と仲良くする"ことをまずはやってみた方がいい。自分のしたいこと、本当の望み、本音。それらを抑圧してはいないか(とはいえ、現状に於いて、法に触れたり、倫理に反することは、それらに含めない)。
抑圧をしているものは、こうあるべき、や、こうしなければ、という固定概念。〜すべき、〜しなければ、は、本当の望みがあって、そちらに意識が向いていても、意識をそれまでにあった場所に戻すため、無意識的に自分に言い聞かせるために使っているものと考える。それは、世間体や一般的など、普通はこう、という世界の囚われ。世間体を気にするのは、意識が外に向いているためであろう。どう見られるか。それらを変えられないのは、頑なさが邪魔をしている。他の因子も絡んで出来ている、そういう囲いをとっぱらえるといいのだが。どこか一辺が崩れれば、他も崩れる。視界が開ける場所に行けるのに、それらに囚われていることで、行けないのはもったいない。いきなり、実際に行動に移すことは難しいかもしれないが、意識が変わると、日々の行動、周りの見え方が少しずつ変わってくる。その積み重ねで大きく変わる。それは、意識が自分に向いているということで、結果的に"自分と仲良くする"ということでもある。
孤独を感じられる人というのは、幸せな人でもある。人といる状況が、その人の価値観の上での普通であり日常、そうでない状況が、非日常。孤独を感じない人は、一人でいる状況が普通であり日常、人といる状況が、非日常。そこから、人といて孤独を感じる人は、一人の時間を増やすといい。人といる状況が慢性化しているのではないか。ならば、その状況を減らしてみることで、人といることに有り難みを感じられるようにしてみたらどうか。即ち、一人の時間を増やすというのは、"自分と仲良くする"ということに繋がる。

2021年11月29日

読みにくいのは重々承知。

ずっと引っ掛かっていて、言い方は悪いが気持ち悪いなと感じていたことがあった。
あれは、依存なのだ、と見ると、それがなんとなくすっきりする。依存にもタイプがあるが、している側が、されている側に対して、気を使い、気分を害さないようにしているもの。している側が、されている側を精神的に支配しようとして、自分が優位であろうとするもの。これらが、まず思い浮かんだ。両者に共通するものは、どちらも、している側が、されている側に、捨てられたくない、という思いがあるのだと考える。前者は、そのままでわかり易いだろう。後者は、支配することで、自分から離れさせないようにする、それが、イコール捨てられたくない、という心理の表れであろう。そして両者は、共依存として成立する場合があり得る。前者は、傍からは仲が良いように見える。後者は、これにDVが絡んでくる。これはパートナーなどの関係の話だが、関係としては、各々が精神的に自立しているのが望ましい。そう考えると、どちらの関係も、どうなのだろうか。前者は、している側の軸が、恐らく、されている側(相手)になっている。自分の軸ではない。されている側も依存される状況を作っている。している側の話には、されている側の話がよく出てくる。軸が相手になっているため。依存は束縛と似たようなもの。後者は、論外。手をあげなくても、言葉や精神的なものも暴力になる。恐怖を植え付け、相手の思考を停止させることもある。
パートナーであっても、被害者にならないわけではない。拒めば、相手が不機嫌になるから拒めない、という状態も、依存している部分があることからくるのだろう。嫌なものは、嫌と言えばいい。それで壊れるような関係なら、その程度の関係だった、というだけ。思い通りにならないからといって不機嫌になるのは、相手に甘えているという状態。てめえの機嫌はてめえでとればいいこと。例え優しい相手でも、かなり前から決まっていた、自分にとって大事な予定があったとして、その気持ちを汲んでくれない相手は、本当に自分のことを大事にしてくれているのか、一度考えた方がいい。相手の優しさは、実は相手自身のためにしていることかもしれない。だから、自身の気持ちが優先。優しい人の皮を被った、自己中心的な人である可能性がある。心地よく過ごすために、自身にとって得があると判断した人には優しくする。意識的、または無意識に区別差別をしていて、人によって明らかに態度を変えることもある。その、優しくする人の中に入っている人には、相手が、区別差別をする人だ、という事実は、何かのきっかけがない限りわからない。知らない方が幸せなことでもあるので、わざわざ気付く必要はないが、薄々気付いてしまって、見て見ぬふりをすることもあるだろう。



2021年7月6日

自分が気になった

細かいことですが、ちょっと補足というか
言い訳? いや違うな。
気になった人はいないと思いますけれど、
自分が気になってはいたので。

あの文章、
おかしい箇所があるのです。
本当とするなら偽り(嘘)だし、
偽物とするなら本物にしますよね?
上と下は、それ程意味は変わらなそうで、
こだわる必要はなさそうだから、
どっちかを
コッソリ変えてしまえばいいのですが。
違いとしては、形がないものと、あるもの、
の違いがあるようです。
しかしながら、なんとなくしっくりこないので、
今回はそれは無視します。

偽りは、
どこかで知っていながらなイメージがあって、
でも、あの場合は
そういう意識はないと思うのですよ。
そうすると偽りは違う。
だからといって、
(今回の表現においての)偽物というのも、
外側から観た人間の感覚でしかないのですがね。
本物または偽物というところに本質はなく、
それがそういうものだとするのは
他者視点(それが過去になった当人も含む)
で観た結果でしかないというか。
また、本当  にしたのは、
あの場合の
本物というのは別にありそうだからです。


思考の整理が下手なので、
意味がわからないかもしれません。
簡潔に言うと、
言葉の対義語としては違うのですが、
まあそういうことなので
気にしないでいただけると大変助かります。





2021年7月5日

考え方が違うのだろう

記念放送を聴いたのですが、これは私の率直な印象ね。
番組のための曲は良かったのですが、
他の部分が、なんというか、
身内感が強く出てしまっていたのが気になりました。
まあ、タグを追ってみたところ
問題なさそうだったから、
私のラジオに対する考え方が違うのだろうと思います。

番組に関係があるとかゲストに来たとかで
コメントをするのは解るのです。
それなら聴いている側も、
あのときそうだったね!  ってなるのだけれども。
もりくぼさんは、番組内番組だった頃に、
質問投げて返してもらっていた
ご縁があるので解るのですが、
他の方々は申し訳ないけれど、番組と関係ない。

リスナーを端に避けてしまっていたというか、
(居るには居るのだけれど傍観している状態)
リスナーのための放送という感じではなかったですね。
ラジオはリスナーが居てこそだと考えているので、
なんか気になってしまったのです。
記念放送なら、リスナーへの還元の意味合い
が強くてもいいと思うのだけれどな。
極論を言えば、一通でも多く
メールを読めばそれでいいと思うのだよね。
読まれたことがない人限定で送ってもらう
のとかやっても、あのファン層なら守りそうだし、
そういうのをやっても面白そうだなと今思った。
読んでもらえると番組への思い入れが変わるので、
読まれるというのは意外と蔑ろにできないですよ。

ああいう番組の良さって、
いつから入っても、
話している人のことを全く知らなくても、
聴いていると、なんかいいなと思える、
そういうところだと思うのです。
ある意味こう、いい距離感があるからいい、
といいますか。

これ関係ないかもしれないけれど、
(人間関係で)近すぎない関係の方が長続きする
とおっしゃっていたかたがいましたね。
とくに連絡をすることもなく会わなくても
何かのきっかけで会えば、
前と変わらずに笑い話し合える。
それが本当の絆ってやつなんでしょうな。
そう捉えると、世の中っていうのは
偽物の絆で溢れているんだな、なんて。
本当の優しさとはっていう話ついでにしていい?
いややめておきます。書くなら別の方がいいや。


と、こんなことを思ってしまった放送でした。
実は、メール送らなけらばいけない
と思いながら送っていなくて、
その理由はツイッターの方に書いてありますが、
感想メールを送ろうかなと考えていたのですけれど、
そんなわけで更に迷っています。
正直に上のような内容を送ったら
ディレクターさんを悲しませるかもしれないし、
送れないじゃないですか。
曲の感想だけにするか、
放送内容は置いておいて、回数にだけ言及するか、
あとは盛るしかない。
なんか感慨深い内容の方に振るとか。
それなら行けそうな気はする。
でも、ここに書いたら納得しちゃったので、
たぶん送らないかな。その方が良さそうだ。

たしかに、
身内感覚にはなりやすい時期にはなっているので
仕方なかったのだろうなとは思います。
ただ、その方向が
私の考える感覚とはちと違ったのでしょうね。
なんでそんなに引っ掛かったのかというと……。
それもここではやめておきましょうか。
更に面倒くさい感じになるので。


そういえば、
昔から聴いていて思っていたのですが、
わかりやすい人だなと思っていて、
その日の調子が声に出ていましたよね。
機嫌がいいとか、気分が沈んでいるとか。
頑張って元気な風にしていたり。
私がただ単にそういうのに
敏感なだけかもしれませんが。




2021年5月27日

補足

前のやつの補足ですが、
誰かに「憧れる」ということは、いけないわけではないです。
私にはそういう人がいないというだけでね。

なんかのニコ生を観ていたときに、
流れていくコメントで、
“ 憧れは、自信のなさの表れだから ”
みたいなのを見て、なるほどと思った記憶がある。
自信がないから、自分の理想の人を見つけて、
真似ることで、理想に近づく。
真似っ子はいけないことではないので。
どんなことでも、真似から入るから。
ある段階にくると、真似ではどうにもならなくなって、
自分なりのスタイルになると。

憧れの人がいることによって、
そこを目標にして頑張るとか、刺激になったり、
良いことだから、そういう対象がいる人は、
私としては羨ましい。
だから私はいつも頑張りが足りないのか。



2021年5月23日

関係あるようなない話。

レミゼのプレビューが始まっているので(初日は25日)、関係あるような関係のない話でもしましょうか。そんな気分なので。
その前に、私は今回パスです。チケット取っていないですし、キャススケも見ていません。そうだ、キャススケ見ていない。あとでそれは見よう。というか、ダウンロードだけはしておきたい。


私がレミゼを初めて観劇したのが、2007年7月1日(日)夜公演でした。何も見ないで日にち出てくる。この年の、観劇した日にちとキャストを書き出したことがあって、それで覚えちゃったのね。なんなら、プリンのキャスト言える……。
という、興味のない人からしたらちょっとあれな感じですが、実はこの日、もしかしたら観られていなかったかもしれないのです。これがまた席が良かったので、観られて良かったですよ。この席より良い席でレミゼを観たことはないですね。

この年のGW明けぐらいに、風邪ひいてしまったみたいだなーと軽く思っていたのですが、それが治るどころか、苦しさがひどくなって我慢していた咳が出るようになり(たぶん我慢しない方が良かったのだね)、仕方なく病院に行ったのが5月末。
気管支が少し炎症してますねとのことで(気管支炎とは言われていない。この前の投稿もそうですが、気管支炎と書かないのはそのためです)、やったことのある人はわかると思うのですが、そりゃ苦しいわけだと。 咳止めの薬を飲んでいても、横になると苦しさが増して寝られないので、座った状態で寝るのだけれど、夜中に必ず一度目が覚めて、咳きこんで止まらなくなる。

それでも仕事には休まず行っていたのですが、いちばん困ったのは電車で、 咳きこみだすとしばらく止まらない、結構ヤバげな音を出してしまうので、まずいと思ったら電車を降りて咳をしたりして、なるべくご迷惑にならないように。
咳をするときは、マスクをした状態で更にタオルで口を押さえるとかしてなんとかしていました。出来るだけ音を小さくしたかったのと、周りにうつさないためでもあった。

本当に薬が効いているのか疑いたくなったのですけれど、薬がなくなってわかりました、ちゃんと効いていたんだと。
咳止めがきれてしまった日の朝、苦しくて動けなくなりました。動けないので、この日は仕方なく仕事を休みまして病院へ。苦しいので、ゆっくり歩きながら、電車にも乗って、なんとか。今思えば、タクシーで行けば良かったのですが、そんな考えはなかったので仕方ないです。

そんなこんなで、咳も、咳止めの飴でどうにかすれば出なくなったのが、6月末。
ギリギリでした。なんとか観劇までには間に合った。治らなかったら、行けなかったでしょうな。生理現象なので出てしまうのは仕方がないのですが、ちょっと咳の種類的に舞台中にはよろしくないじゃないですか。
そんなわけで、観られたわけですが、とはいっても、飴でどうにかしていただけなので、咳が出やしないかと心配でしょうがなかったですね。

こんな状態だったので、マスク姿だったわけですが、” 真夏にもマスク ” という怪しい人になったのが、この年からです。その後も、予防のためにずっとマスクをするようになりました。基本年中マスク、というのは、ある意味、時代を先取りしていたわけですね!(そうじゃない)
あっ、でも、一昨年とかは真夏マスクやめていたのですけれどね。ホントに怪しまれるのですよ。だから外歩く時とかはやめてた。今、マスクが普通のはずなのに、それでも怪しまれているから、本質的に怪しいのだと思う。そんなつもりはないのだけれども、挙動不審なのかな。


結果的にこの年、レミゼを何回も観たことになるのですが、最初はそんなつもりはなくて、一回観られればいいと思っていたのですよ。
いやそれがですね、チケット取れないって聞いていたのです。だから、複数申し込んで、どれか一つ引っかかったらいいな、くらいの気持ちで申し込んだら全部取れちゃったっていう。
それ振り込まなければいいことなのですけれど、素直だったから、当たったんなら全部行かなきゃと、そんな感じですね。姉も取っていたので、それで回数が増えてしまいました。

現在は、演劇界隈は良いことに活気があって、チケットを取るのも大変な作品が多く、取れたらラッキーですが、当時は、元気がないというか、作っている側はそんなことはなかったのだろうけれど、盛り上がりにはかけていたのだろうと思う。
そのため、観たい舞台は大体チケットが取れて観られた。ふと思い立って販売サイトをのぞくと、良い席がポッと残っていたりしましたものね。そしてポチるという(ん?

レミゼきっかけで、他の東宝作品を観るようになり、ミュージカルにも抵抗がなくなり、観劇が趣味と言えるぐらいにまでなってしまったわけなので、まさに、「人生が変わった」とも言えますね。
たまたまだったのですけれど、そういう意味では、すごくいい時期に観劇趣味出来ていたなと思います。良いものを、たくさん観ることができた。それは財産とも言える。
もちろんその分、合わないものもあったので、それは学びです。しかしながら、そういうものにも出会っていないと、視点の偏りにもなりかねないと考えるので、それもプラスでした。
それは、自分の好みは抜きに作品としてどうか、という視点を持つことにも繋がる。こういうことに限らず、そういう見方も、時には必要だったりするではないですか。それはそれとして、という感じですかね。(あなたの考えと私の考えは違うので賛成は出来ないけれど、あなたの意見は尊重します、みたいなやつな)

その作品の空間を、空気感を体感するというのは、当たり前ですが劇場でないと出来ないので、その体感をたくさん出来たことは良い経験でした。映像でも雰囲気はわかるのですが、やはり、演者さんが登場したときの、空気の変わる感じとかは、伝わらないものがありますものね。
とはいえ、映像で観ることの良さもあって、カメラが寄ることで表情が良くわかる、注目してほしい場所がわかる、あとは何より、何をしながら観てもいい、ということですね。私自身が、舞台映像を観て舞台に興味を持った人間だからなこともあるのかもしれませんが、良い選択肢のひとつだと考えます。
そういえば、大学のとき、現代演劇研究だったかな、そんな講義があってとったのですが、講義で使用していた舞台映像は、『笑いの大学』でした。ふと思い出したので書いただけで、特に何もないです。



2020年7月25日

それで

こうだったのではないか、
という真因やきっかけを、
想像または詮索しているものは幾つか見ました。
それについては憶測や推測でどうこうも違うし、
というのが自分としてはあったので書かずに。
真実は、他人にわかるものではない。
何個もの原因が重なっていて、
言葉で表せるような、
そんな単純なことではないのだろう。
こういうことは、
変に美化するのも違うけれど、
歪ませるのも違うから。


彼には、外見だけではない、
なにか、があるような感じがしていた。
これも憶測にはなってしまうけれど、少しだけ。
人前に立つ、ということは向いている人ではある。
うむ。しかし。
あれに屈することなく乗り越えられたら、
世界が広がったと思う。
先がある人だから、
自分を生きて、先を見てほしかった。
悪いと思うことも、転じれば良くなる。
良い面も悪い面もある、ということは即ち、
良い悪いはない、ということ。

相手によることではあるが、
人によって和らぐということはあって、
影響を与えてくれるので、
そういう衝動などを抑えてくれたりする。
他方、良い面を抑えられてしまうこともある。
逆ももちろんある。良さを引き出してくれたり、
あまりなりたくないけれど、
良くない方向に引っ張られることもある。


意外と、行動に移してしまった起因
みたいなものは、ないのかもしれない。




2020年6月29日

通さなければもっと・・・

書きたいことも多々あったりするのですが、
もう少し置いておくことにします。
急ぎではないので、そんなに変わらないですし、
迷っている部分もあったりするため、
無理にでもという感じではなさそうでして。



それはそれで置いておくとして、
全く違うことなのですが、腑に落ちた(※)ことがあります。

 人間は、
 自分の価値観というフィルターを通して物事を見ている

という話。
それで、ああ、だからか、と。

この文章自体、大変考えさせられる内容なのですけれど、
今回は、
この文章が持つ意味についての主観ではありません。
それは書くとしても別の機会にするとします。
そのようなわけで、それとはズレてしまいますが、
考えたことを少し。


ということはですよ。
なんらかの要因で、
そのフィルターが取れるなり、替わるなりをすると、
それまで見ていた物事の印象が変わってしまうわけですよね。
それでそうなったんだなと、謎が解けました。

なぜ、何かを察知したかのように気づいたら、
知らぬ間に変わっていたのだろう
と、自分で不思議だったことがあったもので。
そう考えれば、合点はいく。

これからもフィルターを通して見ることにはなるのでしょうが、
なるべく変に偏らないようにはしたいですね。



※ 「腑に落ちた」、もしくは、「腑に落ちる」
という使い方に対して
違和感のあるかたもいらっしゃるかと存じます。
私は、この使い方でも問題ない、
という考えなので、使っておりますが、
そこは個々の考えの違いです。
間違いではない、という認識でして、
これが、厳密に間違いだ、
という説明のつけられるものでもなさそうなので、
そんな感じでよろしくお願いいたします。(雑!)




2020年6月15日

ほんと

フルバを見ていると、
イヌ! ってなりません?
ほんとイヌ。(意味不明)
もう原作は完結しているので、
ある程度は平気だと思うからいいや。

さすがだと思うのは、
それぞれの干支の特徴が出ているなぁと思う。
あの人干支あれだったなと考えてみると、
わかる気がするのです。


なので、イヌもわかります。
すべての人に当てはまるわけではないですが、
イメージとしてですよ。
腹黒いもんね。
基本は良い人で通っている。
表面上は誰にでも友好的。
ただ、相手に敵意があるとわかれば、
こちらも敵意を出す。

そんなわけで、
イヌが近づいてきたら、
気を付けた方がいいですよ。
しっかりと見極めて、
いいように利用されないように。
(ひとがいい人は特に気を付けて。
そういう自覚がないだろうから、
いい人なのだけれども)

と、イヌの私が申しておきます。
私は人を利用するというのは
たぶんしたことないですが。
(無意識でやっている可能性もあるけれど)
群れないイヌなもんでね。
どちらかというと、
利用される方かもしれないと思うことはある。



ついでに、くだらないことを書きます。
イヌだと犬猿の仲なんて言われたりするので、
サルと仲悪いんじゃないか、
と思われることもあるかもしれませんが、
経験から言うと、そんなことはないです。
サルの人は楽しいよね。

これは
会ったことがある人の印象で書いていますので、
すべての人に当てはまるわけではない、
と言うことは再度書いておきます。
サルの人は、
興味のあるないがすごくハッキリしていると感じる。
それは人に対しても、だと思う。

極端なやつですが、
興味を持たれていない状態だと、
挨拶をすると一応返してはくれるけれど
目を合わせてもくれない。
興味を持たれると、急に仲良くなる。
態度がハッキリしているのは、
うらやましいと言えばそうなのかもしれんね。
イヌは書いた通り、表向きは同じだから。
サル好きですよ。
ワオキツネザル好きだし。
(しっぽもふもふしたい)




2020年5月25日

どういう印象

このブログを読まれているかたが
私に対してどういう印象を
お持ちなのかわかりませんが、
ポジティブに思われているかもしれません。

もちろん、そういう印象なら
その方が、私としては嬉しいですし、
いやいやネガティブでしょ? 
というのも間違いではないので、
否定はしません。
人間両方持っていると思うので、
どちらも正解です。

最初に、ポジティブと思われているのでは?
と書いたのは、
あまりネガティブな言葉は
使っていないと思うからです。
ネガティブな言葉を使わないというのは、
それを使うと
そちらに引っ張られやすいからです。
なるべく使わないことでそれを防いでいる。
そしてまた、画面の先の方々の中には、
そういうのを受け取りやすいかたも
いらっしゃるかもしれないと考えると、
気を付けるに越したことはない。


持論ですが、
自分のことをネガティブだと言っている人は
実際はそうでもないと思っています。
そう言うことで、自己防衛をしている。
後ろ向きな発言をしたり、弱気な発言など、
そうやって吐き出す作業をしているので、
だから、それは賢い行動です。
決して悪いことではないので、
そういうかたはそのままでいてください。
変える必要はないです。

反面、
ネガティブな人はネガティブを嫌うのです。
自分がネガティブなことを言うことを嫌う。
そういうものを目にすることも
耳にすることも嫌う。
だから危うかったりするのですよね。
吐き出せないから。
そして、いきなり糸が切れることがある。
周りの人も気付かなかった、
ということが起こるのはこれだと思います。

前向きなのは
後ろに下がらないために
そうしている。
とにかく、
せめてこの位置にいなければと。
日々なんとか保っている。
それよりも下がると
戻れなくなる可能性があるから。