宗教関係の話をしているので、そういうものが嫌いな方はお避けください。また、だいぶアレな内容なので、読む人を選びます。無理だと思った時点で離れることをお勧めします。書いている自分でもよくわからなくなったりしていますが、きっと最後まで読む人はいないと思うのでそのままいきます。もう少し前にあげられたのですが時間をかけすぎました。
ある報道を見て、どこかの宗教の方なのだろうかと調べてみたが、そういう情報はその時は見つけられず、そうするとやはり幼少の頃から触れていたものの影響だろうか、そういう内容のものもあるだろうし。と思ったが、書かれているところがあって、どうやら仏教、天台宗の敬虔な信徒だとのこと。それならばこれについては納得で、仏教の死生観は輪廻転生(浄土真宗は違うという話もある)。無宗教が多いはずの日本の場合で考えてみると、転生する描写があるアニメやマンガの影響(文学作品なら「豊饒の海」とか)で信じている人も多そう(「生まれ変わりはあるか」という問いに「ある」と回答した日本人は4割以上いるらしい)だが、純粋に宗教的に信じている人はどのぐらいいるのだろうか。そしてまた、仏教では自サツについては明確に記されておらず、その為、自サツは罪に問われないという解釈は出来るし、自分をコロしてほしいと他に願うのも同様である。しかしながら、本人が望んでいたとしても、それを助けたとなると、宗教としては問題がなくても法律的には問題があるので、そこのところがどうなるか(動きがありそう)。ただ、明確に記されていないというだけなので、悪いことではないという解釈になるのは違う気もするのだがどうだろう。一般的には、明言は避けたとしても人道的な観点から説くことが多そうな気がするが。それは結果なので、その結果を導かずに済むには、その過程である原因の部分をどう解決していくか、という話になるのではないか。
そんなことを考えていたら、ひとつ気づいたことがあった。輪廻転生をするのだったら、墓参りや法事は何のためにしているのだろうと。転生をしてしまったらそこにはもういないことになるが、だから墓参りは生きている人間の為だという話にもなるのか。同じ疑問を抱く人はいるようで、説明をしてくれているものが幾つかあったので読んでみたが、どれが正しいものに近い説なのかがわからない。蛇足だが、転生をするまでの平均的な期間は4年5か月というデータがあるようだ。子供に、前世の記憶を訊いたもので、その記憶はある程度の年齢になると忘れるらしい。
さて、私の考えとしては、輪廻転生はどうでもいい、どちらかというと否定の考えである。また、宗教における死生観は大まかに、転生と他界に分かれるが、他界観についても同じで、どちらかというと否定だ。考え自体はそれぞれであっていいと思う。信じるのは自由であるし、ないと言い切ることも出来ない。我々は知らないわけだから。それを知るのは、知る必要のなくなったときになるので、自分の信じるものが正解でいい。
突然スピリチュアルの話になるが、スピリチュアルでは前世が来世がどうのこうのという話がよく出てくる。前世のカルマ(因縁)を今世で解消しないとなんのとか、謎の理論が展開される。その可能性も否定はしないし、例えば現在辛い情況だとして、その情況を前世の因縁とすることで耐えられるのであれば、決して無意味な話ではないのでいいと思う。簡潔に言えば、”前世の色々を今世(現世)でどうにかすれば来世が明るい“ということだが、それは今世が辛くなる可能性が高すぎな気がしないか。そもそも、前世のときはそこが今世であり、そのときの来世は今世なわけだから、その理論を信じると、ずっと前世の因縁を解消し続けていることにはならないのだろうか。我ながら性格が悪い。まとめると、兎角生きるのは大変という結論でいいだろうか。
そしてまた、占いにも、相性で前世(過去世)の縁が、というのがあったりする。これはそうするとかなりいることになるが大丈夫だろうかと思う。ただ、今関わりがあって、その中での縁と考えればなくはないだろうか。しかしながら、前世の縁は大事なものなのか。前世の縁がそのときに出来た縁なこともあると考えると、ならば今世で縁が出来た人もいるだろうし、前世が今世が来世がみたいなものはあまり関係がないのではないかと思うのだがどうだろう。ちなみにだが、占いを信じると、現時点で私には前世の縁がある人物が2人いることになっている。ただ、2人ともアーティストなので、一方的な親近感でしかなく、それをそう言ってしまうのは違うと思うので、それには該当しないとした方が賢明そうだ。前世の因縁や来世がどうとか知ったこっちゃあない。前世に縁があろうが、今世に関わりがなければそういうものだろうし、関わりがあったとして、それを知ることで何か変わるのだろか。占いをこじつけで言えば、関わりのある人物もしくは気になった人物を見てみたらそれがあった、というだけである。
私が輪廻転生を否定しているのは、前世の記憶と言われるものが本当にその時分のものか不確実なことと、仮令それがあったところで、”今“に関係がないと考えているからだ。記憶が残っていると主張する人物もいるが、それは怪しかったりするし、退行催眠(前世療法)はわざわざ思い出す行為をしているわけだが、それも実は怪しかったりする。怪しいという理由は更にごちゃごちゃするから書かないが、だとすると、輪廻転生というものはなさそうだということになる。そのようなわけで、仮令あったとしても覚えていないということは、“今”に関係がないということなのではないか。ならば、それは必要のないことであり、その考え自体があまり意味を持たない。また、死生観のもうひとつの他界観についても否定しているのは、言ってしまえば、それがあったとしても生きている人間が行ける世界ではないので、生きてる人間が考えた世界であり、そこを見たわけではない。他界観とは、死んでから違う世界にいくということだが、わかりやすく言うと天国か地獄かというものである。これを踏まえると、前述で仏教は転生と書いたが、他界でもある。六道輪廻する、もしくは解脱すれば浄土往生出来る。キリスト教も教義上は他界観で、教派によっては転生もあるが一部である。
色々書いてきたが、これらは全て無意味だ。こんなことを考える必要は全くない。むしろ、考えていない方が楽しく生きていけるだろう。過去が現在が未来がなどという柵(しがらみ)はない方がいい。どうしたってやってくるし、どうあっても過ぎていくものであるが、全てが同時に存在し、未来の事象は現在そして過去と変化をする。しかしながら、それらは点でしかない。
而、今を頑張りすぎる必要はない。頑張ることはいいことだし、来世があったとして、それを理由に諦めているのなら今頑張れとは思う。ただ、頑張りすぎて楽しくないのなら、きっとそれは本末転倒だ。楽しむことが出来る人であれば、楽しめる程度には、余裕を持っているべきである。それは何事にも言えるが、今の世の中は柵が多く、ただ楽しむことが難しくなっている。だからこそ、視点の変化が大事になってくる。
そして、時代的に、昔からのこうあるべきや所謂一般的と言われているものに縛られていると生きにくくなる。柔軟な思考と変化への対応、これまでの慣習はベースとしてある上で、それを現代に合わせた形でアップデートさせていくことが必要になる。また、パートナーがいても、敢えて籍を入れない選択をしている人達が増えていることや、LGBTQの話も、時代だなと感じる。LGBT法に関しては、そもそもがもっと当事者へのヒアリングをしなければならないことと議論が必要だ。差別をなくす目的のはずが、これのせいで差別を助長させる恐れがあるということを理解していないところが怖いところである。このことの意味がわかる人は大丈夫であるが、わからない人は考えてみてほしい。