15日に、上野水上野外音楽堂にて観劇。
この舞台は「朗読活劇」という、ただの朗読劇ではない舞台だったので、どんなものなのか期待をしていたが、なるほど、その名の通り、朗読+(プラス)活劇ということだった。朗読はそのまま、声を出しながら文章を読むことだが、活劇とは、立ち回りなどの動きの激しい場面を主とするもののことだ。
この舞台の語り手、坂本真綾さんの主な仕事が声の仕事のため、「朗読」はホームだが、「活劇」の方は、やはりセリフ覚えなどが必要で、それらの経験があまりなかったためか、相当に苦労していたみたいだった。終了してからのブログにて、そんなことが伝わる文章を書いていた。
実際に拝見してみて、その苦労は判った。常に忙しく働いている合間に、よくここまでセリフを覚えたな、と感心した。あれ? という、それだと話が繋がらないのではないか、という箇所もあったような気がするが、そんなことは問題にならないくらい、努力をしたことが伝わってきた。
それは、彼女のファンならば知っていることだが、忘れ物やらが多い人だ。そんな人が、ものを覚えることは、きっと相当に苦手なはずだ。その努力と頑張りは尊敬に価すると思う。
さて、感想だが 坂本さんのファンとしては良い舞台だった。舞台上だけではなく、客席の通路も使う演出だったため、かなり近くで拝見することができた。照明の影響もあったのだろうが、時折、正に「ジャンヌ・ダルク」のように、神々しくも見えた。
また、レミゼファンとしても心を揺さぶられることがあった。それは、小道具で旗を使っていたことだ。そもそも、レミゼの時代よりも大分前ではあるが、「ジャンヌ・ダルク」自体がフランスであることもあり、そういう意味でも共通点があった。それだけではなく、その旗を持つ、という動作が度々あったのだが、それが、レミゼのブルベールがしている旗振りを、私は思い起こした。もちろん、この舞台で使われている旗は赤い旗ではないが、しかしながら、赤い色は全体的に使われていた。
そして、音楽のSpanish Connectionも素晴らしかった。生演奏であったし、その音楽との融合も、なかなか難しかったのではないか。そういう意味でも素晴らしかった。
そういうわけで、ファン視点での感想は、総合的に良かった、というものだ。彼女の演技も、迫真のものであったし、“演者 坂本真綾”は、「ジャンヌ・ダルク」という一人の歴史上の少女を、素晴らしく演りきった。たった2回のステージであることが、もったいないくらいである。しかし、これ以上は彼女にはきっと酷であろう。
朗読活劇 レチタ・カルダ『ジャンヌ・ダルク』
2011年10月14日(金)・2011年10月15日(土)
上野水上野外音楽堂(東京)
語り手:坂本真綾
音楽:Spanish Connection
さてさて。上記は、坂本さんファンとしての感想だった。ここからは、そのファンということを抜きにして、舞台の一作品として見た感想を書く。
そういうわけで、この後に書くものは、私自身の“得意、不得意、そして、舞台に対する価値観”の問題であるかと思う。それを了承いただきたい。この舞台に対しての評価が高い人は読まない方が良いかもしれない。
正直なところ、感想は、うーん……、という感じだった。なんというのだろう、朗読に抵抗はないのだが、作品の形(内容)として、こういうものを自分があまり得意ではないということもあり、消化不良だ。あともうひとつ何かが欲しかった。
厳しいことを言えば、場所もどうかと思う。野外でやる、ということは良い。しかし、あそこの場所柄、道路が近くにあり、そこを通る車の音がして、すぐ現実に引き戻された。あのような舞台は、できれば、非現実の空間を常に創れる場所が良いのではないだろうか。
また、こういう形の作品も否定はしない。しかし、個人としての感想は、言ってしまえば、だから? という感じだ。先述した、もうひとつ何かが欲しい、というのは、この作品を“舞台として、今”演る意味、そしてなにより、「ジャンヌ・ダルク」という一人の歴史上の少女を通して、何を伝えたかったのかが解らなかった。
せっかく、ここまでの題材なのだから、もっと活かしてほしい。
この「朗読活劇 レチタ・カルダ」は、以前にも上演されている。『義経』、そして『沖田総司』。こちらを観ているわけではないので、『ジャンヌ・ダルク』だけでは、本来はここまで言及すべきではないのかもしれない。しかし、「朗読活劇」というものの今後に期待をする意味も含めて、厳しくさせてもらった。
追記:半ば強引に上げてしまったので、少し付け加えます。
あのですね、史実を坦々と演る、というスタンスがいけないわけではなく、そういう作品があることも承知しているのです。ただ、それらの中にも、なにかがある、と思うのですね。
この作品で欠かせないものは、ジャンヌの“厚い信仰”だと思うのですが、これが軸である、と解釈してしまうと、宗教舞台となってしまうから、それはないと思うのです。
そう考えると、いまいちよく解らないのですよね。ただ史実をなぞるだけなら、舞台でやる必用がないし、生演奏の音楽との融合を、と考えたとしても、百歩譲って朗読で良い。
実際、申し訳ないですが、あれなら、そんなに動きの必要性も感じられなかったですし、そもそも活劇とは言い難いような気もします。
キーワードかなと思う言葉も確かにありました。ジャンヌの「裏切りが怖い」という言葉。同胞に裏切られることを恐れていたはずなのに、その後、ジャンヌは生きるために、主(神)を裏切る。恐れていることを自身がしてしまう。それにより、主からの声は、日に日に少なくなる。本当の救いがほしいときなのに、その救いがない。恐らくそれは、以前は、無欲からくる欲により突き動かされていたから主の救いがあったのだろうが、生きる欲が出てきたことにより無欲ではないがゆえ、救いがなくなっていったのであろう。信仰心は持ち続けていたと思う。火炙りにされたときにも、ずっと主を呼んでいたから。ただ、もしかしたら、信仰が厚い人ほど、どこかに懐疑の念も強く持っているのかもしれない。マザー・テレサの話が一例で挙げられますね。
(……と、こんなことを書いていますが、私は特定の宗教に傾倒しているわけではありませんので。一応、知識として、キリスト教も知っているという程度です。だから、なんとなくのイメージです。実は違うかもしれない。)
やはり、どうしても宗教色は拭えないのだが、そうすると、あれか。
ジャンヌの気高さか? いや、違うか。むしろ、逆か。普通の少女だったのだ、ということを言いたかったのか。
まあ、どちらにしても、もうひとつ何かが欲しかった、というのは変わらないので、このままにしておきます。