会話や話し言葉で、対象(物事、人物)に対して、批判的もしくは差別的、侮辱的な言葉は、それを普段思っている、言っている、親(ちか)しい誰かがそう言っていて聞いている、などをしていないと基本的には出てこないです。
そういう文字列を見聞きした時は、この人は本心ではそう思っているのだなと受け取りますね。冗談で言っているつもりでも、受け手によっては真意が伝わらないことがあるので気を付けないといけない。まあ、ほぼほぼ冗談ではなく本心でしょうけれどね。その人の中で、その表現に違和感があれば使わないはず。文字列に疑問を持たないということは、そういうことになりますね。
ただ、今回の件の場合は、その言葉が割と普通に使われるようになっていた背景もある。軽く扱われるようになっていたので、重い言葉として使ったわけではないのだと推察されます。内輪の言葉なのでしょうね。公の場だということの認識が甘かったのだろう。それに、いくらでも他の言い方があっただろうにと思ってしまいます。例えば、「私の視界には入らない」でも意味は同じようなものだし、問題があるかもしれないけれどここまでにはならないでしょう。
そういえば、とある方もあれな言葉を使ったことがありましたけれど、“ああ、この人は普段そういう風に客のこと言って(思って)いるんだな” と思いました。あの時、大多数の客は喜んでいましたが、私はちょっと、“ん?” となりましたから。人に対して使う言葉とはいえ、蔑む言葉ですよ。それを疑問なく使うってどういうことなのでしょうね。
元々そういう人なのかもしれませんし、そうではないかもしれない。それはわからないけれど、後者の場合、こういうのは環境によるところが大きいこともあるので、近くにそういう人がいることで影響を受けてしまった可能性もあります。素直な人程影響を受けやすく、そして素直が故に口から出てしまうという。
良い風(かぜ)に乗せてくれる人もいれば、勢いを殺してしまう人もいる。関わる人によって、方向性というのは変わってしまうのかもしれませんね。それは見方によっては峻酷でもあるか。