ずっと引っ掛かっていて、言い方は悪いが気持ち悪いなと感じていたことがあった。
あれは、依存なのだ、と見ると、それがなんとなくすっきりする。依存にもタイプがあるが、している側が、されている側に対して、気を使い、気分を害さないようにしているもの。している側が、されている側を精神的に支配しようとして、自分が優位であろうとするもの。これらが、まず思い浮かんだ。両者に共通するものは、どちらも、している側が、されている側に、捨てられたくない、という思いがあるのだと考える。前者は、そのままでわかり易いだろう。後者は、支配することで、自分から離れさせないようにする、それが、イコール捨てられたくない、という心理の表れであろう。そして両者は、共依存として成立する場合があり得る。前者は、傍からは仲が良いように見える。後者は、これにDVが絡んでくる。これはパートナーなどの関係の話だが、関係としては、各々が精神的に自立しているのが望ましい。そう考えると、どちらの関係も、どうなのだろうか。前者は、している側の軸が、恐らく、されている側(相手)になっている。自分の軸ではない。されている側も依存される状況を作っている。している側の話には、されている側の話がよく出てくる。軸が相手になっているため。依存は束縛と似たようなもの。後者は、論外。手をあげなくても、言葉や精神的なものも暴力になる。恐怖を植え付け、相手の思考を停止させることもある。
パートナーであっても、被害者にならないわけではない。拒めば、相手が不機嫌になるから拒めない、という状態も、依存している部分があることからくるのだろう。嫌なものは、嫌と言えばいい。それで壊れるような関係なら、その程度の関係だった、というだけ。思い通りにならないからといって不機嫌になるのは、相手に甘えているという状態。てめえの機嫌はてめえでとればいいこと。例え優しい相手でも、かなり前から決まっていた、自分にとって大事な予定があったとして、その気持ちを汲んでくれない相手は、本当に自分のことを大事にしてくれているのか、一度考えた方がいい。相手の優しさは、実は相手自身のためにしていることかもしれない。だから、自身の気持ちが優先。優しい人の皮を被った、自己中心的な人である可能性がある。心地よく過ごすために、自身にとって得があると判断した人には優しくする。意識的、または無意識に区別差別をしていて、人によって明らかに態度を変えることもある。その、優しくする人の中に入っている人には、相手が、区別差別をする人だ、という事実は、何かのきっかけがない限りわからない。知らない方が幸せなことでもあるので、わざわざ気付く必要はないが、薄々気付いてしまって、見て見ぬふりをすることもあるだろう。